独裁とフェイクニュースの時代だからこそ《フィデリオ》を! パーヴォ・ヤルヴィ、N響とのBunkamuraオペラ・コンチェルタンテを語る

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30.03.2019

ベートーヴェンを得意中の得意とするエストニア出身の指揮者、パーヴォ・ヤルヴィ。
Bunkamuraオーチャードホールと3年連続の「オペラ・コンチェルタンテ・シリーズ」では、昨年のバーンスタイン《ウェスト・サイド・ストーリー》に続き、8月29日・9月1日にいよいよベートーヴェンのオペラ《フィデリオ》を取り上げる。パーヴォ・ヤルヴィの意思を汲んで選んだ歌手たちを揃え、本場ヨーロッパでも《フィデリオ》に擁したら最高峰であろうキャスティングで臨む。
NHK交響楽団首席指揮者としては4シーズン目を迎え、ますます好調のパーヴォ・ヤルヴィが、演奏会形式でいまこのオペラを取り上げる意義、そして音楽の未来についても思いのままを率直に語ってくれた。
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——オペラ好きの人たちのなかには、ベートーヴェンのオペラ《フィデリオ》の台本の欠陥について指摘する声が多いと思います。苦心惨憺の末、何度も書き直された《フィデリオ》は、果たして欠陥だらけのオペラなのでしょうか?

パーヴォ・ヤルヴィ ベルカント時代やロマン派のイタリア・オペラを好むオペラ・ファンが、自分たちの思っているオペラと違う、と感じるのは理解できます。

しかし、この作品自体が弱いという話は、私は聞いたことがない。それどころか、これほど素晴らしいビジョンを持っているオペラは、ベートーヴェンに限らず、すべての音楽作品の中でもそれほど多くはありません。

ベートーヴェンは常に伝統を打ち破り、枠組みというものを押し広げようとしてきました。《フィデリオ》は、音楽が見事なだけでなく、普遍的な人間について取り上げようとしている。どの時代に置き換えても、共通して理解できる内容であり、人間の普遍的な真実がテーマなのです。そこには恐怖があり、愛があり、レジスタンスがあり、理想があり、善悪がある。

——《フィデリオ》はベートーヴェンの10番目の交響曲ではないかと思うのですが、9曲の交響曲を聴いてきた人は、《フィデリオ》を聴いて何を発見することになると思いますか?

パーヴォ・ヤルヴィ 通常の人は、「第9」を例外として、ベートーヴェンは声楽が得意という連想はあまりしないでしょう。しかし《フィデリオ》では、どれほど彼が人間の声に共感していたかがわかります。特に囚人たちの合唱は、その音楽的魔法のあまり凍り付くような思いさえする場面です。オペラのなかでもこれだけドラマティックに人間の声を使っている作品も少ない。

ベートーヴェンは交響曲を得意としていましたが、それをオペラの環境下で見事に再現できている。ベルカントの作曲家と比べるつもりはありません。ロッシーニもドニゼッティも、ヴェルディもワーグナーも、彼らのベストを作っています。しかしベートーヴェンは交響曲作家として、オーケストラ・ピットのためにも最高の作品を作った。だからこそ、この作品がコンチェルタンテ(演奏会形式上演)の形で、演奏されることが意義深いのです。

自由と民主主義、そして強い女性を歌う


——《フィデリオ》は民主主義と自由のオペラだと思いますが、最近の演出では、最後がお葬式のように暗く全員がうなだれていたり、自由と解放そのものが幻想にすぎなかったとするような、疑問符をつけるような舞台が多いですよね。

パーヴォ・ヤルヴィ おっしゃるように、現代という時代は、人間の理想、自由や人権、個人の尊重といった考え方に疑問符が出てきています。ほとんど第2次世界大戦の直前に似ていて、独裁者がこの世を謳歌している。アメリカを始め、トルコ、ハンガリー、ロシア、イラン、北朝鮮など多くの国々がそうですね。実際これは非常に心配すべきトレンドではないかと思っています。表現の自由もアメリカでもサボタージュに遭っています。

そして世界はフェイクニュースで充満している。人間の権利、私たちが当たり前だと思っている価値に対する攻撃です。そういうことを、最近の演出は反映しているのではないでしょうか。

《フィデリオ》のストーリーは、ベートーヴェンが確たる信念を持って書いたものです。「第9」でも《フィデリオ》でも、彼は自由を重視しています。「エロイカ」(交響曲第3番「英雄」)でも、ナポレオンへの献呈を止めたときから、自由への信念はすでに生まれていました。実際に抑圧されている人々がいるときに、独裁者がいる時代にこそ、希望や愛が重要になってくる――それははっきりと彼の音楽の中に聴こえてきます。

ただし、音楽が語っていることと、舞台で起きていることは、また少し違うかもしれない。だからこそオペラは面白いのです。演出家たちはベートーヴェンが作り上げたものを、いまの時代を反映するものとするためにいろいろな変わった舞台を作る。それはありだと思います。ベートーヴェンの愛と自由は、ステージがどうあろうと、存在しているのですから。

——《フィデリオ》のもうひとつの要素として、理想の女性としてのレオノーレ(フィデリオという名前で男性に変装し、政治犯として拘留されている夫を救出する主人公)があると思います。ベートーヴェンはこのヒロインに何を託したと思いますか。

パーヴォ・ヤルヴィ 彼は精神的な理想像をレオノーレの中に追求しているだけでなく、彼は理想の女性をそう見ていたかもしれませんね。無限の愛をもち、人を育み、変わらぬ忠誠心を持っている、母であり大地であるような、強い女性。そして愛がすべての弊害を乗り越える。そういう考えを持っていたし、描きたかった。

そういう女性は、他のオペラにもいくらでも存在します。

ベートーヴェンが歌う自由や兄弟愛の中で、彼自身が一番望み、そして彼の人生に欠如していたのが、そういう女性の存在なのではないでしょうか。これは私の憶測ですが。

——ベートーヴェンは恋多き男でしたが、彼が強い女性を理想像として持っていたのは興味深いですね。

パーヴォ・ヤルヴィ 歴史の中で強い女性を理想化するのは珍しいことではありません。それは基本的には我々の人生における母親です。多くの芸術作品において、女性は力強さの象徴として扱われています。自由の女神は、神ではなくて女神であるというのは重要です。ドラクロワの絵でもそう。女性が抵抗、平等を象徴することはヨーロッパの歴史にも多く出てきます。

彼の個人的な女性観というよりは、彼の希求の表れがレオノーレという女性なのだと思います。



[information]パーヴォ・ヤルヴィが指名した歌手たち その1

カナダ人のソプラノ歌手、アドリアンヌ・ピエチョンカ。レオノーレ(男装時:フィデリオ)役。©Bo Huang

フロレスタン役のミヒャエル・シャーデ。ドイツ系カナダ人。©Harald Hoffmann

レオノーレ(男装時:フィデリオ)役:アドリアンヌ・ピエチョンカ


カナダ人ソプラノで、ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン・オペラ、ロイヤル・オペラハウス、パリ・オペラ座、スカラ座など世界の超一流劇場でワーグナーやR.シュトラウスの強い女性の役をロマンティックに歌えるソプラノとして華々しい活躍を続けている。レオノーレはまさにハマリ役。

最近では昨年(2018年)秋、パリ・シャンゼリゼ劇場でのオペラ「フィデリオ」(同役)出演で大喝采を受けた。また、日本公演直後の10月には、バイエルン国立歌劇場にて、クラウス・フローリアン・フォークトと共に、同役を歌うことが発表されている。

動画:2016-2017シーズンのメトロポリタン歌劇場にて。フロレスタンを救出することを決心する場面。


フロレスタン役:ミヒャエル・シャーデ


パーヴォが理想とする「英雄的キャラクターを表現しつつ、音楽的にはデリケートでなくてはならない」というフロレスタン役に指名したのは、スター・テノールのシャーデ。力強さと繊細さを併せもつ歌声で、モーツァルトからR.シュトラウスやワーグナーまで、幅広いレパートリーを持つ。

また、ニコラウス・アーノンクールが指名した「フロレスタン」として、本役デビューの際には、観客・批評家満場一致の大喝采を浴び、以来この役は彼の重要なレパートリーとなっている。

動画:2013年 アン・デア・ウィーン劇場にて。フロレスタンとレオノーレが歓喜の歌を歌う終盤。


音楽の真髄に集中できる演奏会形式をN響と


——BunkamuraオーチャードホールでのNHK交響楽団との「オペラ・コンチェルタンテ・シリーズ」は、《ウェスト・サイド・ストーリー》《フィデリオ》《カルメン》と続きますが、自由と愛が統一テーマなのでしょうか?

パーヴォ・ヤルヴィ 確かに共通点はありますね。ただ、私の一番のモチベーションは、音楽的な内容がもっとも充実しているものを選びたかったことにあります。演出に気を取られず、音楽に集中ができます。ベートーヴェンやモーツァルトがオペラを書くということは、オーケストラのパートもそれなりに重要だということは当然言えるでしょう。

そして、多くの場合、オーケストラの演奏レベルが、理想ほど高くない。もちろん世界のトップ・オペラハウスのことではありません。世界の9割のオペラハウスはもっと小規模なところがやっていて、すべてのオーケストラが素晴らしいとは必ずしも言えない。

ですから、N響のような素晴らしいオーケストラがある場合は、やはり音楽的な部分に集中をしたい。今回はそれぞれの役で経験を積んでいる最適で素晴らしいキャストもそろっています。演出を心配することなく、重要な音楽的真髄に集中できるコンチェルタンテ(演奏会形式上演)に私は惹かれたのです。

——N響はふだんはシンフォニーオーケストラです。オペラを演奏することで、N響にはどういう影響が出てくると思われますか。

パーヴォ・ヤルヴィ 歌手は演技をしています。たとえ動き回っていなくとも、役に入り込んでいる。歌手は自分なりの歌い方の中で輝くのです。

それに合わせるタイミングと強弱が重要で、オーケストラは何が起きてもおかしくないという姿勢で向かわなければいけない。それは交響楽団にとっては最高の経験です。そのおかげで柔軟性を得ることができるのです。

——N響の首席指揮者になられて4年目ですね? どういうふうにN響との関係性は深まり、N響は変化したと思われますか。

パーヴォ・ヤルヴィ より信頼性が増しました。彼らも私をよくわかっていると思いますし、私も彼らのことをよくわかっている。そうなると指揮者の仕事がもっと楽に進むというのはある。

どんな指揮者でも優先順位を持っています。いまN響は私のこだわり、優先すべきものを、しっかり理解しています。だからこそ、相互的理解も有機的になっています。

——オーケストラもオペラハウスも会社もそうだと思うのですが、異なる意見を持った人たちの共同体です。そういう人たちをまとめて、力のあるものにしていくにはどういうコツがあるのでしょうか。

パーヴォ・ヤルヴィ やはり信頼が基本にあると思っています。どんな指揮者もいい結果を出すには、説得力がなければいけない。説得力のない演奏というのは、大抵の場合は、指揮台からの指示が明確でない、自信がない、そういうことが多い。

オーケストラがどう反応するか、その流れに乗っていくことも重要だと思います。私のほうからは論理的なコミュニケーションをとってきたつもりですし、その積み重ねが4年で築いた信頼だと思っています。彼らからの抵抗はありませんし、私が相当考え抜いたことなのだという信頼感もある。

そして最終的には、同じ目標をもって前進していける関係を作ることだと思っています。

世界中に音楽が重要だ


——エストニアの音楽一家のご出身ですね。ご両親から何を得て音楽家になったと思いますか。次の世代に大切な音楽をリレーしていくためには、どういうことが必要なのでしょうか?

パーヴォ・ヤルヴィ 簡単に言ってしまえば「教育」です。それが唯一の方法だと思っています。次の世代がクラシック音楽を本当に受け入れたいのか、もっと興味を持てるのか。それは私たちの手にかかっている。

音楽がなくなることはないでしょう。これまで何百年も音楽はあったわけですし、細々でいいのなら、これからも続くでしょう。ただし、問題は、社会の中でどういう位置づけになっていくのか、です。

エリートのみ理解できるものになっていき、とてもラグジュアリーで、それを大切に思う人がほんの数名になってしまう——これは最悪のシナリオです。

最良のシナリオとしては、みんなが音楽を最高かつ不可欠のものと考え、クラシック音楽の教育に貢献していく世界になることです。私はエストニアで立ち上げたパルヌ音楽祭で、マスタークラスをいろいろな楽器のために行なっています。若い音楽家たちが世界のトッププロに出会えるようにしたり、さまざまな工夫を凝らしています。

財団も持っています。パーヴォ・ヤルヴィ音楽財団というのですが、できるだけそこに私自身もお金を入れ、教育に関わる物理的な問題を解決しようと思っています。若い音楽学生がオーディションに行くための交通費を支給したり、楽器の問題を解決する、幼稚園の音楽の先生を育てるなど、どんな問題でも、ちょっとした具体的努力の違いが、大きな違いになっていくのです。

次の世代の音楽家を育てなければいけない——これは、本当のところを言えば、宗教を広めるのにも似ているかもしれません。世界中に音楽が重要だというメッセージを広げるためには、毎日毎日、できる限りのいろいろな方法でメッセージを発信していく必要があります。

私にとって音楽とは宗教です。どんな形でもいいから、音楽を知らない人に知ってもらう。若いうちに、少しでも扉を開いておくことです。音楽を怖がったり、異物だと感じないような子どもになってもらえるように……。

自らツイッター(@paavo_jarvi)で情報発信する。「エストニアってどんな国ですか?」と質問すると、「7月にパルヌ音楽祭を開くから来るといいよ」とのこと。

[information]パーヴォ・ヤルヴィが指名した歌手たち その2

刑務所長ドン・ピツァロ役のヴォルフガング・コッホ。

刑務所員ロッコ役のフランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ。©Marion Köll

ロッコ役:フランツ=ヨーゼフ・ゼーリッヒ


シリアスな役柄を得意とする希少なバス。そのため世界の主要な歌劇場にて、「パルジファル」のグルネマンツ、「トリスタンとイゾルデ」のマルケ王、「さまよえるオランダ人」のダーラント、そして「フィデリオ」のロッコなどの役に欠かせない存在である。

2013年3月バーデンバーデンの祝祭歌劇場において、任期最終年のサイモン・ラトルが、ベルリン・フィルによるオペラ上演に選んだ「パルジファル」においてのグルネマンツ役の素晴らしい歌唱が記憶に新しい。

ドン・ピツァロ役:ヴォルフガング・コッホ


ドイツ・バイエルン州出身の、まさにドイツ・オペラの至宝。 今もっとも重要なバス・バリトンの一人。

バイエルン国立歌劇場、バイロイト祝祭歌劇場の常連であり、他にも世界最高峰のオペラ・ハウスで重要な役を任されている。

特に2013-15バイロイト音楽祭のキリル・ペトレンコ指揮による「ニーベルングの指環」上演において、「現代最高のヴォータン歌手」との名声を確立。そして、まさに今年1月ミュンヘンにて、ペトレンコ指揮での再上演が大注目であった「フィデリオ」に、2010年同劇場での新演出以来務めているドン・ピツァロ役で出演、圧倒的な歌唱と演技で喝采を浴びた。本場の旬な歌声を日本で堪能できる貴重な来日となるに違いない。

マルツェリーネ役:近日発表、乞うご期待!


マルツェリーネはこれから発表、海外からの招聘となる。

「この役には、単にきれいに歌うだけのソプラノではなく、より意味のある存在感を表現してくれる歌手がほしい」というマエストロのコンセプトに従って、キャスティングが行なわれている。

 
取材を終えて


パーヴォ・ヤルヴィは、物静かで、自信に満ち溢れていて、理知的で、あくまで感情は奥に秘めている人だ。そして目標を共有し、優先順位を明確にすることで、信頼関係を構築し、オーケストラをぐいぐいと引っ張っていく。

21世紀のクラシック音楽界の最重要なリーダーの一人として、その統率哲学と、未来へのビジョンを語る言葉も、彼の音楽と同じように、明快そのもので強い説得力を持っていた。

Bunkamuraオーチャードホールのオペラ・コンチェルタンテ・シリーズでは、公演の合間に、エデュケーション・プログラムでのトークも行なうが、それは子どもではなく母親を意識したものになるという。音楽一家の出身であるパーヴォならではの配慮を感じさせるところだ。

パーヴォが言うように、世界中で独裁の動きが強まり、人間の持つ権利や自由が危うくなりつつあるこの時代、《フィデリオ》というオペラは、ますます重要な意味を持つようになってきている。この秋の上演では、そのメッセージを一人でも多くの人が受け止める機会となって欲しい。

林田直樹


https://ontomo-mag.com/article/event/fidelio-paavo-jarvi2019/

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